ボヘミアン・ラプソディ 感想

ボヘミアン・ラプソディという映画をレイトショーで観に行くことになり、夜中の九時から映画館に行った。夜中の駐車場は肌寒く、止まっている車も少なかった。映画館の中に入っても、人は多くなく、ほとんど真ん中の席に座り、映画を視聴した。そんな温度や静けさも、家のテレビで見るのとはまた違う映画の良さかもしれなかった。

ボヘミアン・ラプソディは、イギリスの伝説的バンド“QUEEN”をモデルとした作品だった。結果から言えば、非常に良い物語だった。この映画で描写されたシーン全てが真実かはわからないが、忘れがちだが本当に大切なことを私は再認識させられた。それは、『人と人との本物の繋がりの大切さ』である。

フレディは移民でザンジバル革命からイングランドに逃げてきた家族の一人である。パキボーイ(パキスタン系の人種を差別する言葉)と周りから罵られていた彼は、父親からゾロアスター教の「善き思い、善き言葉、善き行い」を求められていたが、それを無視して、自由に生きていた。ある日、バンドのボーカルが演奏者であるブライアン・メイとロジャー・テイラーに嫌気がさしてバンドを抜けるところにフレディは遭遇し、抜けた穴埋めとして彼はバンドメンバーに加わった。また、綺麗なドレスを身にまとったメアリーにフレディは魅了され、彼女と恋人関係となった。そして、バンドQUEENはメンバーの才能と努力とともに成功を収めていった。そんな中、フレディが自分がゲイであることに自覚していき、婚約中のメアリーにありのままの自分を知ってもらうため、「自分はバイセクシュアルだ」とメアリー告白した。メアリーは「知っていた。あなたはゲイよ。」と、深くフレディのことを理解していた。フレディは彼女と別れることになったが、メアリーと向かいの家に住み、メアリーへの思いは残っていた。フレディに好意を寄せていたポール・プレンターはフレディがゲイであることの理解者だった。ポールはゲイの為のパーティなどもフレディの為に開催していた。ゲイ疑惑が浮上していたころ、フレディはメンバーと反りが合わなくなり、メンバーにフレディは心無い言葉を浴びせ、バンドを脱退し、多額の報酬を提示されていたソロ活動を行うこととなる。ゲイパーティやソロ活動の疲労でフレディは心身共に憔悴していった。そこに、フレディの悪い夢を見たことを理由に妊娠したメアリーがフレディの前に現れた。妊娠についてフレディが困惑し、口論になったが、別れ際にメアリーは「家に帰ってきたらどう?ここはあなたがいる場所ではない」とフレディに助言した。メンバーとのライヴエイド(20世紀最大のチャリティコンサート)への参加の依頼をポールがフレディに黙っていたこともメアリーから聞き、フレディはポールと決裂することになる。ポールはメディアにフレディのゲイである面を暴露し、フレディは自分の過ちを認識する。ライヴエイドへの参加のために、メンバーに謝罪し、もう一度一緒にやってもらえるようにフレディは依頼する。フレディは自分がエイズであることをメンバーに告白する。ライブエイド前、父親にチャリティーコンサートに参加することを伝え、「善き思い、善き言葉、善き行い」を自らが行ってくると父親に示した。フレディは父親とハグする。そして、ライブエイドのシーンで映画は終わった。

この映画で感じたのは、どんな天才や有名人でも、自分を支えてくれる本当に信頼できる人々が必要だということだ。恋人でいられなくなった後も、体を気にかけてくれたメアリーや、飛び出した後も受け入れてくれたバンドメンバー、そして、両親たちだ。人が帰る場所とは、その人が本当に信頼できる人たちのことなのだと再認識した。灯台下暗しという慣用句を思い出す。本当に大切な人は身近にいるのだと思う。利用してやろうとか、上辺だけとか、そんな繋がりだと悲しい。温かみのある本当の繋がりが人を助けるのだと心底思った。

志と孤独と生

人は何かを成し遂げようと思ったとき、人から見下され、避けられることが多い。私や私が回りの人を見ていて感じる。「そんなことが必要なの?」「やる意味あるの?」「できるの?」簡単にそんな言葉を漏らして、志を馬鹿にした連中が通り過ぎていく。私から見れば、彼らは自分が出来ないことは相手も出来ないだろうと判断しているように見える。出来ないという思考回路は悪だと私は思う。自分の可能性、相手の可能性を潰し、あったかもしれない輝かしい未来を消す。大抵の人は、人と摩擦を作らず、無難な行動を生涯にわたってし、頑張らない。一生の最後に、なんでもないことが幸せだっとと思いながら死んでいく。しかし、そんな生き方も確かに幸せではあるのだ。何のために生まれて、何をして生きるのか?と問うことは、生きることに余裕がなければできないことだ。例えば、明日のご飯があるかどうかの状況であれば、白米の盛られた茶碗に心底感謝を感じるだろう。志を持って生きていくことはそれにあらがう行為だ。明日のご飯の享受も志を持って生きる場合では、難しくなることもある。追い打ちをかけるように敵を増やし、孤独になり、孤独の恐怖心に打ち勝ちながら生きていかなければならない。これは必ずそうなると思う。摩擦を生じない方法を模索すべきという意見は絵空事だと思う。本気でやろうと思ったことのない人の戯言だ。私は心や体は、残念ながら鋼ではできていない。しかし、命は限りある。私の周りの人、環境を自然としたとき、私は自然にどう生きるか仕向けられている気がする。私の命をどう燃やすのかという主導権を、自然現象からできるだけ奪って、人生を歩んでいきたい。

やはり何の為に生きるのか考えてしまう

何の為に生まれて、何をして生きるのか。答えられないなんて、そんなのは嫌だ。

by アンパンマン

と、誰しも何度でも考えるのだろう。私も何度でも考える。正解なんてないと分かってはいるが、皆、人の子だから考えるのだろう。死ぬまで問い続けるのだと思う。時間は有限であって、何をしてても等価ではなくて、だからといって理想と現実の折り合いをつけて、かといって予測可能なことばかりでは面白味は無い。もっとこうしたい、ああしたい、こうあってほしいとは考えてみても、全てが自分の思った通りに進んでしまっては、学ぶことは無い。だけど、明らかに違うと考えてしまうことにまで、譲歩するのは、それはそれで命を費やすべきことではないのかもしれない。そして、そうやって思いつめていて、がんじがらめになって行動不能になっていては時間はまた過ぎて行く。効率的な方が生産性は高い、だけど、効率を求めすぎていて、原始的なプロセスをすっ飛ばして享受する物質的な豊かさは本当に幸せなのだろうか。いや、それとも効率はまだまだ足りていなくて、もっともっと効率的になるべきなのだろうか。何故、思考できるよう私は生まれたのか。気づかないほうが幸せだったのか?気づいたからより幸せになっているのだろうか。老いるのは経験を積むから喜ばしいことなのだろうか?経験を積む時間が少なくなっていくから悲しむべきことなのだろうか?世界を知るために勉強すべきか、それとも、快楽を満たすために遊びつくすべきなのか。夢に向かって走るのか、現状を維持すべきか。理論的に考えてから行動すべきか?思考外の発見を得るために行動あるのみなのか。高尚な研究を行うべきか、金儲けのビジネスを行うべきか。人とは違う美しいものを追い続けるのか、家庭を持ち人並みの幸せを得て子孫を残すのか。わからない。何で私は生まれたのか。何をして生きるべきなのか。だれが幸せなのだろう。大富豪?有名人?研究者?ビジネス成功者?平凡な市民?ホームレス?戦地の戦士?自殺者?病人?無職?男?女?動物?植物?無生物?

生きる意味は、多分、単に脳が見せる幻覚なのかな。セロトニンを増やそうかな。幸せなんて存在しないのか。

 

 

千と千尋の神隠し 考察

千と千尋をみて考察したことをまとめる。

あらすじ

千尋は前の生活に未練があり、これから始まる新しい生活に不満や不安を持っており、新しい学校を馬鹿にして、家(新しい家がみすぼらしく見えたりした)に偏見を持ち、知らない山(妖怪に見える石を見る)やただのモルタルのトンネル(畏怖を感じる建物に見えた)に恐怖を覚えていた。トンネルを抜け、川の先に行くと、千尋のイメージを元に構築された世界に迷い込む。そこで千尋は、社会の縮図として性産業、社会への失望や無力感(カオナシ)をみて、働く誰の心のなかにも、現代社会では消えてしまうような一面(湯婆婆では銭婆)を持ち得て、それでも誰もが働いていることを知る。そんな現代社会の有り様や実体験(銭婆やカオナシが編んだ髪紐)から、千尋は溺れても自力で助かった経験(ハク)を思い出し、自らの生きる力が自分の中に眠っていたことに気づいていく。しっかりと現実を直視することができるようになった千尋は両親と豚の区別がつくようになる。そして、千尋は過去の経験(ハク)に見送られ、過去を振り返ることなく、まっすぐに新しい未来を直視して進んでいく。

登場人物の隠喩についての考察

ハク:千尋の強い心・生きる力

カオナシ:社会への失望や無力感の象徴

湯婆婆:社会の象徴

坊:大人になりきれないものの象徴

母親について:川で溺れても、生きていた千尋に、本当は強い子だと知っているが、千尋がいつまでも甘えているので、千尋に厳しくしている。

物語全般について。

冒頭と終わりの背景を見比べると、例えば、冒頭では岩やトンネルが奇妙に見えるが、物語りの終わりでは普通に見える。また、湯婆婆と緑の頭は母親と父親に特徴が似ている。これは、千尋の中にあるものを使って、世界が構成されていることを表している。すなわち、千尋にはそう見えるものが作中に多く描かれており、この物語の大部分は千尋のみの経験であると考えられる。

物語の詳細。

父親は新しい引っ越し先が田舎であることに「住んで都にするしかない」と言っているように、本意ではないが、転勤などの都合によってしかたなく引っ越しをしたということがわかる。それは社会人として、しっかりと働いて決断している大人であることを表現していると思う。それに対して、千尋は車の中でふて寝していて、新しい学校に舌をだして、花がしおれたことに文句を言って、誕生日のバラが一本だけであったことに不満を言う。そのような態度をずっと見てきた母親は、口調が厳しくなっており、「しゃんとして頂戴」という。新しい家を両親が見つけた時、千尋は下にある石の小さな置物を「家みたいなもの」というが、これは千尋には新しい家は石ころのように見えたということを表しているだろう。また、妖怪のような石・赤い門は大人にとって普通のものが千尋には恐怖の対象として見えた。これは物語終了時の成長した後の千尋には普通に見える。トンネルを抜けるときトンネルの向こうは曖昧な色をしている。これは千尋を未来への不安を表しているのだろう。トンネルを抜けると、千尋には妖怪のように見える石がたくさんあり、後ろを振り向くと、おどろおどろしい門を抜けてきたように見えた。千尋が苦戦している川の石もそんなに大きなものではないため、母親に「はやくしなさい」と怒られる。未完成の川(三途の川?)を超えたところで、摩訶不思議な世界に迷い込む。千尋にとって、両親も徐々に嫌なものに見えてきて、勝手に店のものにあるものを食べるような人間になってしまう。両親から離れ、湯屋を見つける。電車に夢中になっているうちに、日が暮れ始める。それを危惧した千尋は、自分の中に眠っている生きる力であるハクを具現し、急いで帰ろうとする。千尋の両親を馬鹿にした感情は二人を豚にする。何も食べておらず、おなかの空いた千尋は道端に生えていた実を生きる力(ハク)を使って食べる。ハクが出てくるが、自分の力で考え、走り釜じいに会いに行く。働いてご飯を食べるためである。母親のイメージから作られたものとして湯婆婆、父親のイメージから緑の頭、そして坊を千尋に提示される。千尋は千という源氏名を与えられる。千尋は仕事と食べ物(おにぎり)を手に入れる。しかし、元の自分を忘れないように、名前や服を隠しておく。湯女として、初めてお客さんと千尋は売春する。自転車のハンドル(男根)を抜いて、汚いものを出す。これによって、汚い経験(泥だんご)を得る。砂金はその対価として支払われた。それと同時に、千尋はハクとして銭婆から契約印を盗み、契約を無効にしようと試みた。その経験は千尋を傷つけるものだった。強い自分(ハク)が傷ついて、堕ちそうになるがハクに泥だんごを飲ませ、売春する契約など有効ではないと理解し、契約を吐き呪いを解いた。社会への失望等を象徴するカオナシは、金で千尋の心を買おうとするが、千尋はカオナシに自らの汚い経験を吐露し(泥だんごを飲ませる)、また、自分の心を手に入れることは不可能だと拒絶する。また、千尋はハクを通して湯婆婆に甘えた赤ん坊と汚い金である真実と突きつける。ここまで気づいた千尋に、今までの経験(社会の有り様を提示してきた銭婆やカオナシが編んだ髪飾り)を身につけ、ハクが強い自分であること、両親は豚などではないことに気づく。強い自分の具現化であるハクは川の向こうにはいけない。千尋は、眼に映るものを馬鹿にしたり偏見(余所見)する事なく両親とあるく。そして、トンネルを抜けた後(千尋の未来)が明るく見える。

自民党憲法改正案への私の所見

前投稿で自民党の憲法改正案の現行法との違いを客観的にまとめた。

ここでは、改正案を読んだ私の感想を書く。

率直に思うのは、この改正案では危険であるということである。

憲法改正自体には反対はしない。

しかし、今の改正案では不当に国民の人権が侵害される恐れがある。

例えば、12条で「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」

としている。一見、「自由や権利を行使するとき、他人に迷惑をかけてはならない」の意と思うが、

よく見ると、「自由や権利を手に入れるためには責任と義務を払え、そして他人に迷惑をかけるな」となっている。

一体、自由や権利の対価として、どれだけの責任と義務を我々国民は払わされることになるのだろう。

改正案にはそれは明記されていない。

現行法では、「公の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と責任が制限されている。

それに比べて改正案では義務や責任に際限が無い分、自由を得るために奴隷のように扱われ続ける恐れがある。

実際、改正案では、第18条でわざわざ「いかなる奴隷的拘束も受けない」という文言を消去している。

改正案では至る所にこのような権力が暴走することを許すような表現が多い。

むしろ意識的に、国民を支配しようとする姿勢が見受けられる。

だからこの改正案には私は反対だ。別の改正案を考えるべきだ。

 

 

日本の戦争に対する姿勢について

近年、とりわけ重要なトピックと言えば、憲法改正。

私も自民党の憲法改正草案を読んでみました。

自民党の憲法改正草案は以下の自民党、憲法改正推進本部のHPにあります。

クリックしてseisaku-109.pdfにアクセス

以下に現行法との違いの例をまとめます。

 

①天皇の元首化

②国歌国旗の尊重の義務化

③自衛隊の国防軍化、武力の国際提供の容認

④内閣総理大臣による国防軍の統括

⑤国民の自由と権利の縮小

⑥信教の政治介入容認

⑦家族同士の助け合い義務化

⑧政治の教育現場介入の義務化

⑨公務員の労働者の権利はく奪

⑩国民による地方自治の役務義務化

⑪緊急事態における総理大臣権力拡大

⑫緊急事態の国民の服従の義務化

⑬改正後の憲法の尊重義務化

 

 

 

 

 

私は凡庸な生き物の一つ

貴方は公園で行列を作っている蟻やゴミ袋に群がるカラスや首輪で繋がれている犬を見て、それらが生きていると感じると思う。

少なくとも私はそうだ。

生きていないとは私には感じられない。

なぜならそれらが生き物として一定の条件を満たしているように見えるからだ。

論理的には分からないが、直感的に、盲目的に瞬時に生き物だと私は感じる。

むしろ、論理的に何故それらが生きているのかと問うことこそ、私の根底にあるステレオタイプが野暮だという。

生き物としてごく自然な形でそこにあるその物質は、生き物として典型的な形をしているのだろう。

要するにそれらは凡庸な生き物といえる。

人間は生き物か?などと聞くまでもなく人間は生き物である。

むしろ人間が生きているから生き物という定義みたいなものがこの世にあるかもしれないぐらいだろう。

では人間の一人である私はというと、当然生き物である。

当然と断言してしまえるほど、私は凡庸な生き物である。

そして、どんな偉人でも結局は凡庸な生き物だと思う。

例えば、自分の一生を賭して成果を挙げた研究者も、

何世代にも渡って受け続かれる曲を生み出した作曲家も、

社会の秩序と平和の基盤を整えた政治家も、

生活に不可欠な道具を考え出した発明家も、

自身に宿った生き物としての能力を生命活動の中で遂行しただけだ。

才能に満ち溢れている人でも凡庸な生き物なのだから、

私などただただ生きているだけである。

一人間がいくら足掻いて生きたとしても、そこには脱生き物的な何かは一つも生まれはしない。

絶対に。

悪魔が私に「何をしても無駄だ」と囁く。

 

 

死の想像

自分の死について考えることがある。例えば、寝ようと布団を被り、暗闇の中でぼけーっとしていると、ふと保育園の時にみた地獄の絵本の絵とともに死後を思い浮かべる。僕は大学生のとき、理由は不明だが倒れた事がある。そのときの感覚が死と近いなら、多分死は真っ暗で何もなく闇しかないと想像する。記憶も思考も全て奪われるだろう。恋人も親も友人も一瞬にしてなくなり、闇に自分が溶ける。死んだらなんの意味もない。学習して得た高度な知識も、困難を乗り越えて得た貴重な経験も、見聞きした人間の歴史も、心から感動した芸術も、何もかも闇に呑まれる今何を思い生きれば良いのだろうか。仕事で過ぎていく時間や趣味に費やす時間や難しい学問を解く時間や人の作ったものに感動する時間は日々燃え尽きつつある命を食い潰して良いものなのだろうか。過去の自分はもう死んでしまった。保育園のときの鬼に扮した職員の鳴らす鉄棒のドスドスという音が僕の心を不安がらせ、今でも死の足音として連想させる。保育園時代、母親と一緒に寝てた僕は「僕は死なないよね」と夜な夜な母に問うた。一人ぼっちでトイレに行くと死神に連れて行かれそうで怖くなり何度もオネショをしてしまった。死ぬのが怖い。死にたくない。何も手につかなくなる。生きるのに夢中な人は厳しいことを言う。死んだら終わりなのに、厳しくしたって虚しいだけなんじゃない?と吐き気がしてしまう。たまに、死にたくないと叫びたくなる。

スモールハウスに憧れる

Bライフの提唱者である、高村 友也さん(通称 毎年寝太郎さん)の書いた

スモールハウス 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方

が面白い。

寝太郎さんは

東京大学理科二類→休学一年間@海外→東京大学文学部哲学科→慶應義塾大学院哲学科→ニート

という訳の分からない経歴を持っている事からも分かるとおり、なかなか面白い人のようだ。

この本を読んだ人がブログに感想を書いていたので、紹介する。

ヘタレ主義者ばたおが、ぼちぼち生きていくブログ

 

 

 

 

今やってみたいこと

私は今、食べ物をなんでも自分で作ってみたい病に陥っています。作ってみたいだけで、実践しないことは多いだろうと思いますが、例えば、燻製、醤油麹、梅干し、ぬか漬け、パン作りをやってみたいです。自分で作ってみて、余分なものの入ってない味を確かめてみたいのです。